現状から考えて、地方教会と各牧師の監督者として設定されている「長老」役職の廃止が一番のポイントでしょう。
もちろん、その後も地方教会員や牧師がこれまで通りお伺いを立てる可能性がありますから、長老経験者の監督者的発言助言も厳しく戒めるべきです。 各教会の独自性を認めることを声明することです。
教会相互に友情をもって各々の「ビジョン」を励まし合い、刺激し合うことです。
主の十字架クリスチャンセンターは現在、設立当初から居る二人の責任長老が実質全て「教会の流れ」教団の方針を決定し(彼らはそれを神の示しと信じている)、北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州、沖縄をブロックにして、そのブロックの長老が牧師会を主催して締め付けるピラミッド構造だからです。
元々、この教団のオリジナリティは、各教会が各々の賜物や個性をもって自立して神に従うことでした。
しかし、設立者が自らの「示し」の結果を急ぐばかりに未熟な人を登用し人間的に組織化、長老による監督制を開始。
「リバイバル」に関する癒しや預言の現象を「手法」として、神がこうしろと言っていると、地方教会を助ける名目で全体の方針を決め、「手法」の見本とばかりに長老のブロック内各教会での「奉仕」を始めました。
そしてその中で、教団設立当初から居た若い牧師達が長老になって、設立者である長老牧師夫妻の預言と体験的証しを必要以上に強調して絶対化したことで、今の状態になったと考えられます。
主の十字架の看板を見た人が設立者の語る奇跡が起こることを求めて、地方の教会に来ていたのも単一化に拍車をかけました。
彼らは、預言・癒しなどの霊の賜物を使わなければリバイバルは来ない、霊の賜物は危険だから監督者が必要だ、という口上で、上の立場から神学生以上のメンバーを縛り、あなた方が従わなければ神が変わりの人を送ると言いました。
実際奇跡を求める人は集まって来てましたから、それにも脅迫感を受けます。自分は落ちないぞと必死に組織に服従します。 改善策として原則論では、一人ひとりが自分の人生を生きることに常識を持つことであり、常識に照らして妥当でないことを切り捨てる勇気を持つこと、となるでしょう。 しかし、現状はそのような状況にありません。
(保守的な福音派は教会が間違うはずがないと思う傾向がありますので、「まずは祈ってへりくだれ」と言われるかもしれません。
主の十字架クリスチャンセンターもそうした福音派から出てきたものです。最も急進的な福音派は、自分たちこそが「福音と聖書主義を世に保つ」ことを「神からの使命」を自負していますし、福音派を通して「リバイバル」が起こって人類の多数派になるという「ビジョン」を持っています。(以下に福音派のその発想の発展形とも言うべきもの書きますのでお読みください。)
主の十字架に参加すると、個人に向かって「人生における神の計画があなたにある」という言葉を、「預言」などで(神の言葉として)名指しで牧師長老が語り、続けて「あなたの神の召しこの教会にある」などと言われます。
そして、それを言われた人がその言葉を信じて安定して来るようになると、「この教会を離れるとサタンの攻撃に遭う」とか「人生の神の計画が失われる」とか言われるようになります。 その内容は教会での奉仕の事に止まらず、「人生そのものまで失うことになる」とまで言われたりします。
牧師達は「預言」を言った後に、「新約時代の預言は間違うこともあるので吟味してください」と付け加えます。
しかし、説教の中身は、「人生の計画・召しを受け取るにはへりくだって聞き従え」「誤って召しを受け取らないと後悔することになる」となります。 主の十字架の牧師神学生の信じる「真実」は以下のことです。
(これらの訓練の内容は、先の脅迫感も合わさって、相当シビアになります。)
この教会は神がリバイバルを行うために建てた。だから、この教会に集うものは皆「リバイバルの器」で献身者として神に召されている。
「その中で、私も召されており、来た人にもそれを教えて「建て上げ」よう。沢山集わせ、一人ひとりに賜物と服従の訓練をし、リバイバルの準備をしよう。」
- 神が任命し権威を与え立たせた長老や牧師に従え。長老牧師に従うことは神に従うことだ。
- 一人ひとり祈り神に聞き従え。しかし教会の流れの中で導くので、惑わされないように注意しろ。
- 受けた預言・示しが教会の流れと合っているか注意しろ。一人で動くとサタンの攻撃を受け霊的に危険だ。
彼らの真実とは、身を低くして神が立てた長老牧師の権威秩序に従い、「主の十字架の流れ」に同意し、それを「神の召し」として自己責任で犠牲を払って(キリストが十字架を負ったように命がけで)それを行うと言うものです。
これに誠心誠意同意しているので問題が厄介です。 更に、個人の許容範囲をオーバーした人間的自己犠牲は連鎖的にそれを強いる構造になるので、事態は深刻さを増します。
現状では、長く集った方が牧師・長老の主張に長期間逆らった場合、秩序を乱したとして処分される可能性があります。
そればかりか、他の教会員に口を聞いてもらえなくなる可能性や、牧師によっては預言や説教でプレッシャーをかけてきます。 また、例え地方教会の牧師が非難を受け入れ態度を変えても、その教会の他の信徒の人間関係などで長老に知れ、「信仰」と「主任牧師であるキリストの権威」によって「主の十字架の流れ」に合わないことに介入・命令してきたりします。
特に長老クラスは自分は「神の使命」によってやっていると心から信じきっており、秩序のために公に牧師や信徒を非難(実際は中傷)します。 こうして、人間的な妥当な疑いや非難は、サタンの誘惑に乗せられたこと、あるいは精神的な病、と片付けられてしまいます。 実は主の十字架では、牧師・長老でさえ気をつけないと「リバイバルの召しから落ちる」と言われており、全体が恐怖の構造で出来ているのです。
現状では実質、リバイバル現象として多くの人の前で奇跡や預言のわざをして人を救える人材は教団設立者のみ、という暗黙の構図です。 主の十字架では、信徒個人の相談事には、聖書を用いて丁寧に対応し、その場で熱心な祈りがされることが普通です。
その対応は温かみがあり愛を感じさせます。そこで、多くの人が信用を寄せるのです。
ところが、同じ牧師が「人生の召し」とか「サタンの攻撃から守られるためにこの教会に留まり続けろ」とか、時として説教で言い出します。
日ごろの温かみによる信頼で信用してしまうと、その脅迫にも似たメッセージと温かみとの両方が神にあるものなのだと思うようになってしまいます。 このような「飴と鞭」が、催眠術のように効いて妥当な判断を鈍らせます。最後に私の主張になりますが、
「鞭」が無くても、神の愛とそれを映す人の愛と信仰によって立つ教会が真のキリスト教会ではないでしょうか?。 キリストは、人間的な、律法の形式的熱心を戒め、愛が律法の要求を満たすこと、赦し合うことを語り、私たちを律法の責めから解放するために、人類の罪を負い十字架に架かったのではなかったでしょうか? 自分達が居なければ福音が失われるとかリバイバルが起きないとかの主張は、どこから出てきたのでしょう? いつの時代の宗教改革や信仰刷新運動も、きっかけは信仰の真実をそれぞれの中で熱心に求めたもので、結果を打算的に考えたものではなかったはずです。(それを人間的野心で継続しようとした結果多数の悲劇が起きました。) まず、主の十字架に関してですが、あまりに人間的に過ぎる「自分こそ神の召しに預かりたい」という発想と、個人の宗教的体験(預言癒しと主張されるもの)による思い入れが、今回の問題の根底にあると思います。 そして、これは主の十字架以外でも起こり得ることだと思います。 現在のテロ戦争の混乱も、同じようにアメリカ大統領(劇的回心)と、イスラム原理主義(神の啓示)の心理的体験による思い入れから来る宗教への熱心が荷担している面も指摘されています。
(主の十字架はユダヤ人のパレスチナ完全占領が聖書の成就で神の「御心」だと考えています。正に聖書「文字通り」のことが起こると信じています。ユダヤ人のシオニズム=聖地回復運動が旧約聖書の記述に固執する宗教思想ですが、福音派の一部はこの考えを支持しています。これが原因で福音派が支持するアメリカ共和党はイスラエル寄りだともされています。) 「愛と赦し」がキリスト教の中心です。 しかし、それはキリスト教を知らない人も当然持つ普遍的な人類の価値観であり、どの民族ででも人を生かし平和をもたらしています。
私は、自分の信仰では神の天地創造とキリストの十字架刑が地上に愛をもたらしたと思いますが、それを主張することで戦争の火種なることに、私はキリストの意図を感じません。 使徒パウロは、十字架信仰で既に律法から解放されているのに、律法に拘る人を信仰の弱い人と言いました。彼は躓きにならないために、その人の前では律法のタブーを行わないと言いました。 神にもらった自由で一人でも躓かせてはならないと思うと書いています。 パウロは細心の注意を払って、自由を得させる十字架の救いを守ろうとしていました。
個人の体験立場は尊重されるべきですが、自らを絶対視し排他的になることは、「愛と赦し」に矛盾し、そもそもキリストを信じる信仰に矛盾することです。 主の十字架クリスチャンセンターが現在主張する立場に固執し行動することは、愛という観点から妥当ではないと重ねて指摘しておきたいと思います。
合わせてその源流である保守的福音派、影響を与えたペンテコステ派、カリスマ派の排他的立場も問題であると申し上げたいと思います。