「恐れないで、ただ信じていなさい。」
マルコ 5 : 36
一匹のひつじのホームページです。教会しかあなたを救えないってほんと?。わたしたちが、主を呼び求めるのに教会の認証が必要なのでしょうか。
もし、そうなら、主の残された救いは、はなはだ中途半端で、不完全なものです。教会とうまくいかないひと、兄弟姉妹とのコミュニケーションがとれないひと、仕事柄礼拝にでれないひとは、救われないことになります。
もし、はみだして、迷ったなら、ひとを見ずに、主を見あげ求めましょう。なぜなら、神のお約束は、完全で完璧だからです。
いっさいひとの儀式的な認証や手続きをふみません。
わたしたちが、いま、ここにいるのは、希薄な信仰や行いからではなく、神の愛と、許しと、哀れみに、ほかならないからです。
そして、神からわたしたちへなされた、たったひとつの永遠の約束と、私たちが命を懸けて、こたえる使命のためなのです。
聖書の言葉もない、洗礼もない、日曜礼拝もない。すべて途絶えて失った。
いま、どのように哀れでみじめであろうとも、この約束を信じる限り、神もまた、そのお約束を、約束どうり、わたしたちにはたしてくださいます。
そして、その唯一の約束こそが、十字架の上、神の子、主イエスを信じる信仰にほかなりません。
区切り線

区切り線 170 名前: アイ 投稿日: 2003/10/25(土) 21:43
子羊さま
>天国については、私は、新約>使徒 なので、
>マタイ7:21 言葉より行い となります 新約
>使徒というのは福音書のみを採用するということなのでしょうか?。
マタイ7:21なのですが、「主の御心を行う」という部分で考えさせられるのが、ルカ23章39〜43なのですが、この犯罪人はイエスへの信仰によってパラダイス行きを約束されたように見えますよね?
そうなると、主の御心を行うとは、結局のところ「信じる」ということになるのですね。。。
この犯罪人も十字架に付けられているので、究極行いたくても行えないのですものね。とにかく、神様はちゃんと見ていてくださるし、見られてますよ〜ってことでもありますね。
区切り線■聖書は本当に神の言葉なのでしょうか。本当に神の言葉というなら、イエス様本人が書かれて、律法としてこうしなさいとされたことでしょう。
惑うことなき神の言葉として据えるところに、罠があるのではないでしょうか。
わたしは、それを破壊、破棄するためにきた。
わざわざ聖書を開いて、くまなく自分の気に入った個所を探し出し、示されました、神のご意思に違いないとするのでしょうか。
聖書は聖霊によって書かれたというのは、はなはだ疑わしい論です。もし、そう思い、そう信じてことを行うなら、詩編を掲げるなら詩編によって、ローマ書を掲げるなら、ローマ書によって裁かれます。 神の言葉であるイザヤ書によって預言する、そう宣言したとたんにイザヤ書によって裁かれます。なぜなら聖書を指して聖霊によって書かれた宣言したからです。
聖書は、先人たちの取り組みの傍証あかし集として捉えるべきものです。そういう意味では貴重な書物です。
今、生きて我々の前におられる神の子、主、ご自身に直接聞けば済む話ではないでしょうか。
十字架の罪人は、洗礼も奉仕も、伝道も、いやしも、預言もしていません。何もわからない、何も知らない、ただ、皆がそういうように、あなたを見ていると神の子だと何となくそう思う。
理由、理論は、なにひとつありません。かれは単純にそう思って口にしただけです。

この人を見よ。

これこそが救いの本質、約束の完結、神からのミッションの完結にほかにりません。
幼子のように、神様がいます、神の子救い主イエス様がいらっしゃいます。
それ以外、いっさいなにも足さない。
アブラハムは、神がおっしゃるならそうですとだけいいました。理由は、神がおっしゃったからです。
わたしたちが、哀れみ深い神から授かったのは、約束による信仰のはずです。神が見返りなしに一方的にくださった愛と許しと哀れみを、自分を中心に据えた、偶像信仰としていないでしょうか。

御利益(ごりやく)がないから、わが神は、ご利益の神ではありません。あなたの世の中の利益、世の中損得の神ではありません。
約束を掲示される神です。自分の得にならないから、 神様がしてくださらないから、だから自分の信仰が薄い、神の御心でなかったと。いつから、みずから神にかわり、神殿の中央に座り、あんな神が良い、こんな神であるべきだと、自分に見合う神を選び、神すらかってに造りだしたのでしょうか。
最後の最後まで自分中心の心で、自分自身を裏切り、自分みずからを救いから遠ざけ、自分自信を殺しているのではないでしょうか。
神は、雷鳴とどろく声でモーセに一度だけ語りかけ、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれました、それでもモーセは自ら神からの啓示託宣と称して、自分勝手に幕屋を張り、幕屋という小声でヒソヒソ話の偶像を創り出し、罠にはまり最後には約束の地に入ることが許されませんでした。
彼は、指導者たろうとしその重責をまっとうしようとし、命を懸けました。
指導者は、彼ではなく神ご自身だったのです。
到底負うことのできない責任を負うとして、恐怖と苦悩から罠に落ちました。
そして、最後の偶像がイエス・キリスト様とならないように。すべての罪過を負い解放してくださいましたが、神ご自身ではありません、また、神に等しきお方でもありません。
神は唯一であり、イエス・キリスト様は、神と人との唯一の仲介者として、その右に座しておられる、神の子なのです。三位一体ではありません。モーセのように最後の罠に落ちないでください。
これは教会の牧師にもいえることです。信徒の責任を負い導く責など、到底人には負いきれません。信徒も盲目的になり、教会教、牧師教、兄弟姉妹教という穴に共に落ちていませんか。盲人が盲人を手引きし穴に落ち込む。
あの教会には神がおられる臨在を感じる、あの牧師のメッセージは霊的に満たされる。
その箱に神はおられません、あなたに霊を注がれるのは牧師はありません。
すべては主にお任せすることなのです。主がなさることなのです。牧師や信徒、ヒトにはできませんが、救い主にはそれが出来るのです。
あなたの責を、教会や牧師、他人にゆだねないことです。また自分でその責を負うこともできません。唯一、主ご自身のみがその責を負うことができるからです。
すべての人の責を負い、たったひとりで、重い十字架を背負い、あなたのかわりに、みずから処刑場へと向かわれた神の子、主キリストのみができることなのです。
おなたの重荷を責を負ってくださるのは、このかたのみです。すべてをゆだね、お任せし、たった2人だけでホレブの山に登ってください。

わたしたちが、信じてなお悪くなることが、はたして神のせいでしょうか、永遠の許しと和解を与えられ、まだ、あれが足りない、これが足りないと、わが神に向かい呪いのことばを吐くのでしょうか。

多くのことは、努力と忍耐で、そのひと本人の問題です。金も地位も名誉も人間関係も。
しかし、どのようなひとも、努力と忍耐をしても勝ち取ることができないのが、わが神から与えられた、永遠の許しと和解だったはずです。

わたしたちが、最初に切り出された岩、掘り出された穴を常に思い起こして、最初の信仰を捨てるべきではありません。
そして、それは、わが神から、直接あなたに啓示されたものだったはずです。ひとや教会や世の中をみて、忘れ去るべきものではありません。

たとえ、あなたが、たったひとりになったとしても、あなたが捧げる礼拝は、ひとりでも礼拝です。 あなたが礼拝所であり神殿です。

わが救い主は、いわれたではありませんか。2人もしくは3人が、祈るとき、わたしも、その中にいると。数を数えてください。間違わないでください。あなたがひとりでも、主が、ともにいてくださるなら2人です。
区切り線主の十字架のこと
主の十字架クリスチャンセンターの健全化について、脱退した牧師よりの提言(97)